たのしい経験と渇望

人間は生まれたときから備わっているものに対して、
「ある」ことを意識することはできません。
または「あったほうがいい」ことを意識することはできないのです。


私が育った岡山では、その名の通り、山ばかりで、
生まれたときから周囲に山があり、そこで遊ぶのは普通のことでした。
しかし、19歳で東京にやってくると、それは違っていました。
「ちょっと車を走らせないと山に行けない」のでした。
それまでの、学校帰りに寄り道する対象から、
レジャーで遊びに行く対象として、山の認識が変わったのです。
森林について勉強しているというと、
子どものころに山で遊んだ経験がない人は
「またなんでそんなものを?」といいます。
たのしい体験のない人にその価値はわかりません。
逆に、ずっといまでも山のある環境で暮らしている人もそうでしょう。
「森林? 山? またなんでそんなものを?」といいます。
あって当たり前のものだから、勉強する対象のものではないのです。
子どものころたのしい体験をしたけれど、
いまはそういう環境にない人こそが、森林の価値を理解できます。
そういう意味では、自分が森林について勉強し、その価値を広く
伝えていくことに意味があると思っています。


人がそのものの価値に気づけるのは、
「なくなろうとする危機感」によってです。
日本の、二束三文になってしまった森林を、中国人が値踏みする
といった出来事が報道されたことがありました。
「山なんて」って言っていても、他の人にとられそうになると、
急に声高にその権利を主張するのです。
日本海に浮かぶ島の領有権とかもそうだし、
自分の妻に対してそういう感覚になる小説も読んだことがあります。


いま日本の森は危機にある。
この危機感によって人々の関心は高まっています。
私もそのひとりなので、引き続き勉強していきたいと思っています。