スマートグリッドと迷惑

いまエネルギー関連としては「スマートグリッド」が注目されている。
スマートグリッドとは、電力を双方向でやり取りすることによって
需給バランスを最適化しようとするものだ。
今後、電気自動車や家庭内燃料電池太陽光発電が増えていくと、
さまざまなところに蓄電されるようになる。
今までは発電所から家庭へという一方通行だったが、
家庭から発電所へも送電できるようにするなどして、
電力の需要と供給のバランスを賢くとっていきましょうというものだ。
こういった試みは「脱石油」として注目されている。


先日、「無縁社会」についてのNHKの番組を見て感想を書いた。
その後追い企画の番組「AtoZ」がNHKで放送されていたので、
録画して見た。
私と同世代の30代の苦しい胸の内が吐露されていた。
私たち35歳前後の世代から急激に非正規労働者が増えていき、
結婚しない人、できない人が増えていった。
そのため、番組では「無縁社会」のキーワードは、
正規雇用と非婚化としてそこに焦点を置いて描いていた。
だが、見ているうちに別の点が私には気になった。
番組に出ている30代が異口同音にいうのは、
「親や親戚、友だちに迷惑をかけたくない」
ということだ。
私はこの「迷惑をかけてはいけない」という
日本人の伝統的美質が以前からずっと気になっている。


私たちは子どものころから「他人様に迷惑をかけてはいけない」と
いうことを繰り返し言い聞かされて育つ。
そのため、「迷惑をかけることは絶対悪」だと認識されている。
それに日本人的優しさも手伝って、迷惑をかけないことが
人として最低限のつとめだと思っている。
このことが日本人の礼儀正さ、安全な社会をつくっていることは
疑いもない事実だろう。
ところが、昔は迷惑をかけてはいけない対象は他人だったが、
今は親、兄弟、親戚、友だちにまで広がった。
「誰にも迷惑をかけてはいけない社会」になったのだ。
そこに自由と自立、それに自己責任というキーワードが浮上する。
経済効率を求めるあまり、昔ながらの血縁、地縁は生産的でないもの
として扱われ、そうした縁を断ち切って都会で効率的かつ、自由に
生きることが賞賛された。
家庭は核家族化して個人は自由になったが、自立することを求められ、
成功しようが失敗しようが自己責任として処理されることになった。
経済や社会が安定しているときはそれでもよかったが、
経済が停滞し、社会が不安定化すると、無理矢理につなげた縫い目が
一気にほころび始めた。
地縁、血縁を断ち切ってきたから、親、兄弟、親戚、友だちさえも
他人になり、迷惑をかけてはいけない対象となった。


番組ではそういう人たちから話を聞くだけのサービスを提供する
ビジネスがあることを紹介していた。
利用者はいう。
「親や兄弟、親戚、友だちに迷惑をかけたくないので、
お金で済むのなら、と思った」
なんというさびしい世の中かと思わずにはいられなかった。
ならば親や兄弟、親戚や友だちは何のためにいるのか。
成功したときに自慢するためにいるのだろうか。
今の60代、70代でさえ、「子に迷惑をかけたくない」という
人が多い。それはすでに彼らの親の世代の面倒を見てきた実感が
そういわせるのだろうと思う。
「迷惑をかけることはできない。お金で解決するしかない」
そういう思いが、年金問題の関心の高さとなり、一層不安感が増幅される。
不安や孤独感から逃れるための唯一の方法はお金を持つことになった。
お金を持てない人は、「無縁社会」「孤立」「孤独死」の恐怖に
おびえて暮らすしかない。


私が強く思うのは、この「迷惑をかけてはいけない」という
思い上がりをいますぐ捨てるべきなのではないか、ということだ。
「迷惑をかけてはいけない」というのは、「自分が迷惑をかけられたくない」
ことの裏返しであり、「自分かわいさ」の表れである。
そして、「自分ひとりでやっていける」という思い上がりの結果なのだ。
私たちは生まれたときから誰かに迷惑をかけて生きている。
生まれてきたばかりの赤ちゃんを見ればわかる。
生まれたばかりの子ども存在は、言ってみれば「迷惑のかたまり」だ。
そうやって人一人が大人になるまで、いや、大人になってからも
無数の有形、無形の迷惑を、人や社会や自然環境にかけている。
「迷惑をかけずにはいられない」のが人間なのだ。
親にとって読んで字のごとく、子どもは迷い惑わされることの多い
存在である。しかし、いないよりいたほうがいい存在である。
親にとって「迷惑をかけてもらっていい」存在である。
こうなると、その「迷惑」は必ずしもマイナスばかりではない
ということになる。
こういう話を聞いたことがある。
自分の親を介護するのに、何日ぐらいだったら我慢できるか、という
質問をしたとき、多くの人は、「1か月は短いような気がする」、
「3か月は長いような気がする」といい、
「だったら49日ぐらいがちょうどいいか」と笑い話になったという。
「ある程度の迷惑」をかけてもらうことで、
迷惑をかけたことによって、「自分は責任を果たした」という
すっきりした気持ちを子に与えることができるわけだ。
こうなると、この「迷惑」もあながちマイナスとはいえなくなる。
迷惑をかけられた人が「人の役に立てた!」と思えるかもしれない。
この「迷惑」も意味のあるものである。
そうなると、「迷惑をかけない」という考えは、
ひとりよがりで、自分かわいさから発した思い上がりの最たるもの
とさえ思えてくるのだ。
迷惑はかけていい。
そのぶん、自分が元気なときには迷惑をかけてもらえばいい。
迷惑の需給バランスを最適化すればいい。
迷惑のスマートグリッドをやればいい。
「もちつもたれつ」とか、「お互いさま」といういい言葉がある。
迷惑なんていままでさんざんかけてきたのだから、
いまさら少しの迷惑で誰も拒否したりしない。
誰しもそんなに強くないのだから、誰かに頼って生きればいい。
みんなで塊になって、この荒波を乗り切る。
そして、自分が元気なときは誰かの迷惑を引き受けること。
アメリカが自由と自己責任だけの国みたいに言われるけど、実は違う。
自由で自己責任もあるけど、それ以上に縁を大事にする。
血縁、地縁はもちろん、会社での付き合いも多いし、
ホームパーティーを頻繁にやる。
自由や自立、自己責任というのは、血縁、地縁というベースと
それに付随するつながりを備えたコミュ二ティがあってこそ成り立つ。
私たちは「個人主義、自由、自己責任」のある一側面しか見ずに
導入してしまった。
これを是正する取組みと、新しい仕組みを考えなければならない。
都市部に広がる共同墓地、シェアハウスはその兆候だろう。
私も自分なりに考えていきたい。