いまどきの35歳

来月で35歳になる。
先日、NHKで「35歳を救え!」なる番組が放送され、
話題になったという。
「救われるほど落ちぶれていない!」と一瞬思ったが、
そうでもないらしい。
35歳というのは団塊ジュニア世代であり、
昭和48年生まれは子どもの数がピークに達した年代である。
彼らは(そして私もそうだが)、もっとも受験競争が厳しく、
にもかかわらず就職氷河期に見舞われた人たちである。
不遇の世代。ジェネレーションXと言われたりもした。
新規雇用を抑制したおかげで非正規労働者が多い。
10年前の35歳と、200万円も収入に差があるという。
インフレ率はここ10年でほとんど上がっておらず、
というよりも逆に下がり気味、つまり現金の価値が上がり気味なので、
実質は200万円以上の差があると思われる。
もちろん、10年前35歳だった世代は45歳になり、
収入は減っている段階であるはずで痛みわけといえなくもないが。
私たちの世代は親が高度成長を引っ張ってきて世代で、
収入が右肩上がりの家庭で子ども時代を送ってきている。
こうした人たちが独立すると生活水準がガクンと下がる。
そのため親元に寄生する「パラサイトシングル」が出てきた
わけだけど、そうして未婚化が進む一方で、
「収入を上げて生活水準を上げる」という未来が描きにくくなった。
就職してもその点ではドリームレスになったのだ。
収入が上がらないのなら、別の点で成長を実感するしかない。
それが「仕事にやりがい」を求めることだった。
収入が上がらなくても誰かの役に立つことや、なんらかの評価を
得ることを成長の指標にしようとしたのだ。
しかし、やはりここでも仕事は基本的に資本主義のベースで
行なわれる事業であるだけに、成長を感じにくくなっていった。
そこで、日常のささいなことに幸せを感じることに
価値が置かれるようになった。
「心の時代」「スピリチュアルブーム」もこれと無縁ではなかった。
どんな物事でもとりようによっていかようにも意味をもつ。
そのことに気づくことこそが、豊である、ということだ。
思うに、みな「生きている実感」が欲しいのだ。
何か具体的なものをつくるわけでもなく、人から感謝されることも
なければ、「それで生きているといえるのか」と思ってしまう。
人は社会的な生きものなので、
「人のつながり」によって自己を認識する。
なのに、そのつながりさえも希薄になっているから、
いませっせとつながりを作り直している。
それがブログであり、SNSであり、ツイッターなのだ。
平均余命からすると、あと45年弱をこの世の中で生きることになる。
これからどんな世の中になるのか想像もつかない。