お金の使い方がわからない

お金の使い方がわからない。
「10万円くれたらオレが教えてやるよ」という声が聞こえてきそうだ。
いや、そういうことじゃないんです。


節約の本を仕上げてしまってから、
デフレの行方を見つつ、考え込んでしまう。
このままみんながものを買わずに、あるいは買ったとしても
安いものしか買わなくなったら世の中はどうなるのだろうか。
いま私の会社の周辺では弁当を350円で売っている。
1年前まではせいぜい450円であったが、100円も値下がった。
無店舗型なら家賃がないから450円でも十分利益が出せるのだが、
そこは店舗型で350円を実現している。
無店舗型なら280円にできるのかもしれない。
いまオフィス街で問題になっているやつだ。
弁当屋でみんなが安い弁当を買うようになると、
飲食店が儲からなくなり、飲食店員の給料が上がらず、
飲食店員が節約するようになり、その飲食店員も安い弁当を
買うようになるかもしれない。これがデフレスパイラルだ。
いままでは疑いもなく節約はいいことだと思っていた。
しかし、単に安くものを買うだけで本当にいいのだろうか。


以前書いたあるおばあさんの話を思い出す。
そのおばあさんが住む村では、村長が亡くなったときの参列者は500人
だったのに、おばあさんが亡くなったときは1500人が来たという。
地域の民生委員とかボランティアなんかをやっていたが、
その他は特別なことはやっていなかった。
不思議に思ったある新聞の記者が村民に聞いてわかったことは、
おばあさんは55歳まで学校の先生をやっていて、
そのときの教え子の店でしか買い物をしなかったということだった。


また、先日テレビを見ていると、村山喜一元首相の引退後の
生活について触れられていた。
元首相は自転車でフラリと買い物に行き、黒飴を買った。
なぜ黒飴なのか。
「沖縄が大事だから」という。
原材料に黒糖と書かれているから買ったらしい。
何気ないことなのだが、どういうことにお金を使うべきなのか、
とても考えさせられた。
安いものには安い理由があり、高いものには高い理由がある。
富めるものをさらに富ませる必要はないが、
まっとうな価格のものを買い、がんばっている人にちゃんとお金が
回るようなことができないか。
じゃあ、そのまっとうな価格って何よ?って言われると
答えられないのだけどね。
自分の“体感”として、まっとうだと思えるかどうかでしかない。
安いものだけ買っていると、
そういう感覚がマヒしてしまうようでコワい。


私たちが安いものに囲まれて生活できる要因の一つに、
発展途上国の安い労働力がベースにある。
国産だけ買っていればいいかというと、それも違うような気がする。
近年はフェアトレードという仕組みもできたが、
政治問題やら武力などのパワーバランスの関係もあって、
搾取の構造はなかなか改まらない。
ただ、ひとつだけわかっているのは、今の私たちの便利な生活は
遠い国の誰かの涙と、未来の人の苦労の上に成り立っている、
大変危ういものだということだけ。
今年も引き続き、何に対してお金を払うべきか、
よーく、よーく考えていきたい。