「見えるモード」になる!

いま『「痴呆老人」は何を見ているか』という本を読んでいます。
痴呆老人の言動を、認知のシステムの面から解明しようと試みています。
そのなかでこんな一説があります。


生態学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは(中略)、
あらゆる生物にとって「ただ主観的現実のみが存在し、
そして環境のみが主観的現実である」と結論しました。
つまり、生物は環境中の無数の潜在的刺激のうちから、
その生物固有の受容体(レセプター)に合うものだけを
選択的に取り出して反応する。
合わない刺激は無意味であって、存在しないのと同じです。


と述べています。
このあとで痴呆老人の認知のあり方について縷々述べているのですが、
今回ここで述べたいのは、その生物固有の受容体に合うものだけを
取り出して反応する、という部分です。
つまり、人間は見えるものを見ているのではなく、
見たいものを見たいように見ているに過ぎないのです。
そのようにして見える世界を「主観的世界」というわけです。


以前にも書きましたが、自分が妊婦になって初めて
「世の中に妊婦ってこんなにいるんだ」と気づいた主婦や、
お酒の席で失敗して初めて「電車内の酔っ払いはみっともない」
と気づいたサラリーマンがいます。
人間というのは、「見えるモード」になっていないと、
どんなに視界に入っていても見えないんですね。
これは人の認知のシステムがどうなっているかを知るのに
とてもわかりやすい話だと思います。


私たちは見ているようで、見えているようで、多くのものを
見過ごしています。あるいは気づかないで過ごします。
けれど、その見過ごした、気づかず過ごした物事のなかで
大切な何かがあったかもしれません。
その何かを見るためには何が必要か。
それは「気づくこと」だと思うのです。
気づけば見えるようになる。
では気づくにはどうするか。
いつも、誰からでも、どんなことがらからでも学ぼうとすること。
「この出来事はどういう意味があるのか?」と
絶えず考えていることだと思います。
何か人は大きな出来事に遭遇したときだけ気づきます。
でも気づきの意識レベルを高めておけば、
ささいなことからでも気づくことができると思うのです。
そうすることで、「見えるモード」になれる。
他人とは違う風景が見られるのではないか。
・・・そんなことを考えた午後でした。