見ている世界は自分の偏見そのもの

森林インストラクターの勉強をしていたら、
この年になってものすごく基本的なことを知る。
キツツキというのは、コゲラアカゲラなど木をつついて
穴を開けることのできる鳥の総称だと知った。
いままでキツツキという名前の鳥がいるのだとばかり思っていた。
あと、常緑樹もそう。
落葉樹は秋に葉を落とすが、常緑樹は葉を落とさないものと思っていたが、
四季を通じて古い葉を落とすことを知った。


そんなある日、公園でクスノキの木の影のベンチでボーっと青空を
見ていたら、木の下にいっぱい葉が落ちていた。
で、よく見ていたら、ときどき葉っぱがひらひらと舞い落ちていた。
いままでそんなことも知らなかったし、クスノキが常緑樹かどうかも
意識したことがなかった。
クスノキは晩春から夏にかけて落葉して、新しい葉をつける。
葉をよく見ると、古い葉は色が濃く、新しい葉は色が薄い。
ちょうど今の時期に新しい葉と古い葉が入れ替わるのだ。


たぶん、クスノキの落葉は、これまでにも何度か見ていたはずだ。
でも、そういうことを考えたことはまったくなかった。
視界には入ったかもしれないが、見えてはいなかった。
知ってこそはじめて見える。意識してみてこそはじめて見える。
本当の意味で「見る」ことをはじめる。
そう考えたら、私たちが見ているこの世界は、
私たちが「見たいように見ている」世界なのだということになる。
私たちは「ありのままに見る」ことはできない。
この意味で、厳密には「客観的に物事を見る」ことは不可能である。
私たちが視覚だけでみて判断している世界は、
ものすごく偏見に満ちたものなのだ。
このことは「聞く」とか、「味わう」とか、
五感すべてについて言えると思う。
知って、意識して初めて「見る」ことができ、「聞く」ことができる。
だとすれば、私たちは「実際に」見たり聞いたりする以外に
やることがある。
それは想像することや、感じることである。
そして、「なぜそうなのだろうか」「どうしてあんなことになっているのか」
と思って見てみることである。何でも注意深く見てみることである。
これをどんどん研ぎ澄ませていけば、いろんなことに気づける人に
なることができ、とても豊かな人生を送れると思う。
これまで私たちは「実際に」見えることや、聞くことのできるものだけを
大切にしすぎた。「偏見」を取り払ってみることが必要である。