清水宗治を知っていますか?

「岡山にはどういう偉人がいるんだ?」
飲み屋でおじさんたちに聞かれて、すぐに頭に浮かんだのが
清水宗治という戦国時代の武将が思い浮かんだ。
歴史に詳しいおじさんたちにも彼の名は知られていなかった。


清水宗治が歴史に登場するのは、
織田信長が討たれた「本能寺の変」のときのことである。
このとき、信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は
中国地方を攻略する任にあたっており、備中高松城を攻めていた。
秀吉は黒田官兵衛の進言に従って、城の近くを流れる足守川
せき止め流れを変え、水攻めにする。
孤立した高松城では毛利家の配下にあった清水宗治
家臣3000人が籠城していた。
秀吉は、すでに本能寺の変で「信長、討たれる」の報を聞いており、
すぐにでも講和を結び、明智光秀を討ちにいきたかった。
そこで、交渉の結果、家臣の命を救うかわりに城主・清水宗治
命を差し出すことになる。
清水宗治は小舟の上で、両軍が見守る中、自害して果てる。
そのときに残した辞世の句がこれ。


浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して


秀吉から「降参したら、備中の国をあげるよ」と言われたときも、
「毛利さんに仕えているんだから、そげなことできるわけねーが!」
と拒否した。
投降したり内通したものよりも、最後まで忠義を守った武将を
重用した秀吉は、宗治を称して「武士の鑑」と絶賛したという。
忠義に厚く部下思いの上司として、日本人の鏡として
現代では地味だが、マニアックに人気が高い武将でもある。
ぼくが19歳のとき、水攻めされた高松城址を
自転車で見に行った記憶がある。
興味のある人はレンタサイクルを借りて、吉備津神社吉備津彦神社と
一緒に見学されるとよいでしょう。