「おくりびと」

話題の映画「おくりびと」が近くの映画館で上映されていたので
ひさしぶりに邦画を映画館で観ました。
邦画を映画館で観たのは「里見八犬伝」以来じゃないかな。
いろいろと考えたことが多すぎて、まとまらないのですが、
とりあえず書いてみることにします。


本木雅弘演じる主人公は、念願のチェロ奏者として楽団の一員になる。
しかし、すぐに楽団は解散。チェロを諦め、亡くなった母親が
残してくれた山形の実家で、妻と再起しようとする。
そこでひょんなきっかけから納棺師となるのだが、そのことを妻に
言えないまま時が過ぎ・・・。


というシンプルなストーリー。
まず、山崎努が存在感ありすぎ。山崎ワールドといってもいい。
「こういうおっさんいるいる!」といいたくなる。
山崎努は、本木が勤める「NKエージェント」の熟練納棺師なのだ。
納棺師は、葬儀社にいる場合もあればまた別に遺体の処理を専門とする
会社や個人でも開業していたりする。
遺体をお湯で洗う湯灌というのもあり、湯灌師が納棺まで行うこともある。。
遺体がどこかで発見された場合、その処理にも立ち会う。
そして、体を清拭して棺に納めるまでを請け負う。
当然、地方によっても納棺師の仕事の役割の範疇は違う。
この映画では納棺師の仕事の様子が一面的ではあるがよくわかる。
誰もがやりたがらない仕事だからか、報酬は高いという。
納棺におさめる儀式は、本木さん曰く「茶の世界に通じる」というように
厳かで静謐なものである一方、独居老人の痛んだ遺体を処理するという
現実的な側面もある。
この映画では、納棺師のいいところばかりを取り上げてはいない。
主人公は幼馴染から「まともな職につけ」といわれる。
死体を扱う職業として偏見にさらされているのだ。
夜中でも呼び出しを受ける。大変な仕事だ。
現実はもっと厳しいと思う。
夏場は遺体の痛みが激しいし、介護の行き届かなかった遺体は、
棺になかなか納まらないという。そういうとき、どうするか。
しかたなく、骨を折って棺に納めるのだそうだ。
ただ、そういう現実的なことばかりを並べるのがリアルな映画と
いうわけではない。この映画は「旅立ちのお手伝い」としての
納棺師の死生観がテーマなのだ。


(ここからネタバレがあります)
おくりびと」の英語版のタイトルは「DEPARTURE」である。
「出発」である。
笹野高史演じる、火葬場の管理人がいう。
「ここは門だ。新しい世界へいく門なのだ」
「死」はものごとの「終わり」ではなく、「新しい出発」なのだ
というわけである。
だから、納棺師は遺体に死化粧を施し、新たな旅立ちの手伝いをする
というスタンスを貫いている。
具体的な「現実」から、抽象的な「死後の世界」へ。
そういうことが死ぬということである。
この抽象的な「死」というものは、幼い子には理解できないという。
9歳前後になって自我が発達して抽象概念が理解できるようになって
初めて、「もう会えないのだ」ということがわかるようになる。
具体から抽象への、わかりにくい境目に納棺師や火葬場の「門番」がいる。
こういうときに儀式が必要になってくるのだと思う。
あるいは、出棺のときの車のクラクションもそうかもしれない。
私たちは「死」に対してどこかで境界線を引かなければ
割り切れないのだと思う。死んでも体は物として残るからだ。
納棺師の所作は、遺族に「亡くなったのだ」ということを実感させる
のが仕事なのかもしれないと思う。
実感させて、ひとまずお別れをしてください、ということなのだろう。
私たちは、納棺師の所作や出棺のクラクション、火葬場のスイッチに
よって、死を現実のものとして受け止める。
物さえなくなり、あとは自分たちの心の中だけで故人が
生きることを引き受ける。そしてまた具体的な現実に戻って行く――
そんなことを考えた。


一方、自分の死について人はあまり考えないものだけど、
ぼくはよく考える。みんな自分だけは死なないと思っているけれど、
たとえば今日、自分でも思いがけず死んだ人だって、昨日は
「ぼくは明日も生きている。ぼくが死ぬなんて考えられない」と
思っていたはずなのだ。
いつでも死ぬ可能性がある。わずかだがゼロではない。
そう考えると、自分で死んだことがわからない死に方はしたくない。
どんな死に方でもいいけど、「ああ、もう死ぬのだな」と思って
死にたい。それまでに、自分がどこから来て、どこへ行くのか、
自分なりになんとなくわかったつもりになっていれば、なおよい。
これからもたぶん考えると思う。はっきり答えは出ないと思うけど。


※以下、映画の中でなるほどと思ったり、感心した箇所を挙げてみる。


それまで涙を見せなかった人が、棺のフタを閉めようとしたときや、
火葬場のスイッチが押されたときに涙を見せるのは、
この映画ではみんな男性だった。
視覚からの情報が強い男性だからこそで、最初から泣いている女性とは
対照的だった。すごくリアルだった。


納棺のとき、遺族が笑っている場面があった。
人が死んだって、悲しいばかりではない現場もある。
笑っているからといって、たのしいとは限らないし、
どうして笑えるのか、笑ってしまうのか想像させられ、
興味深かった。


山崎努演じる納棺会社の社長は、事務所の二階で植物に囲まれている。
普段、死に接しているから「生」とその連鎖を想起させる「植物」や「食」
を身の回りに配することでバランスを取ろうとしているところが
非常にリアルだった。


本木さんがこの映画を着想してから映画化されるまで
15年ほどの時間が経ったという。
ぼくも20代前半のころから死生観をテーマにした本をつくりたいと思い、
引き出しの奥にしまっているものがある。
ずっと捨てないでもっておけば形になるものもあると思っている。


もっともっと考えたことがあるのですが、
まとまらないので今日はこのへんで。