「自分らしく」をやめてみる

1年で50キロの減量に成功した岡田斗司夫さんが、著書の
『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)で、
こんなことを書いている。


かつて結婚や就職は本人の意思だけでは決まらなかった。
共同体や親族の意見を重視した。
ところが、だんだん日本人が重視する対象が狭くなってきた。
親族から家族へ、家族から親へ、配偶者や恋人へ、
そして「自分の気持ちがすべて」となっていった。


彼はこのことを「自分の気持ち至上主義」と名付けている。
読んでハッとした。いままでモヤモヤしたのが、スッとした。
なるほど、確かにその通りだなあと思う。


昔は自分の思い通りになることなんかほとんどなかったんだろう。
就職は集団就職だったし、進学するにもかなりの制約があった。
でも、いまはだいたいのことはなんとかなる。
結婚だって、親は反対しても親族が反対するなんて話は
まず聞かない。
「あなたたちの好きなようにしなさい」と言われる。でも、


自由にしなさい


そういわれると、困ってしまうこともある。
似た経験をしたことがないだろうか。
たとえば、夏休みの「自由研究」だ。
「自由」=「何をやってもいい」なのである。
「植物の観察」なら対象を絞るだけでいい。考えなくてもすむ。
でも、何でもいいというのは、困る。ある意味、苦痛だ。
そこで考える。「あたしって何が好きなの?」と。
そういうのをとことんまで突き詰めると、ストレスにもなる。
うつ病に悩む現代人が多いのも、自分というものを
とことんまで考え詰めてしまう人が多いからではないか。
うつ病になっても、女性が子どもをもうけると、治ってしまうのは、
自分のことどころではなくなるからではないかと思ってみたりする。


人はルールとか、基準があったほうがラクなのだ。
自分の行動の元となる、帰属する集団があったほうがラクなのだ。
これを社会学では準拠集団という。
学生なら学校、銀行マンなら銀行、商社なら商社が準拠集団である。
準拠集団に属する人たちの間には、規範があり、行動の基準がある。
先輩がやったようにやることが、とりあえずの行動指針になるのだ。
会社や学校にはそういうものがまだあるが、
なくなったのは、「男らしく」「女らしく」とか、
「大人らしく」「子供らしく」とか、「社会人らしく」であり、
代わりに出てきたのが、「自分らしく」であった。
みんな、「自分らしく」あらねばならないと思っている。
そういう社会の強迫観念にかられている。
「自分らしく」を考えた末に、「本当の自分」を作り上げてしまう。
そして、「本当の自分」と「いまの自分」のギャップに悩むのである。
「こんなのあたしらしくない」と思ってしまう。


私は「本当の自分」などというものは虚構だと思っている。
そんなものがあると思うのは間違いだ。
「本当の自分」などないのだと思ったほうがいい。
そしたら、ギャップに悩むことはなくなる。
「自分はどうあるべきか」を悩んでいる自分をそのまま受け入れられる。
「自分」から逃れられないで苦しんでいる人は、一回、自分の準拠集団の
ルールとか、規範どおりに生きてみたらどうか。
「自分らしく」ではなく、たとえば「男らしく」「大人らしく」
「銀行マンらしく」生きてみるのである。
そしたら、ストレスがちょっとは軽くなるのではないだろうか。
ちょっとはラクに生きられるのではないだろうか。