幸せのちから

幸せのちから movie

公開2日目とはいえ、日曜のレイトショーだというのに、
かなりのお客さんの入り具合。
全財産21ドルからホームレスを経て、
高収益を上げる会社社長にまで上り詰めた
クリス・ガードナーさんのお話です。
5歳の息子を保育所にあずけ、送り迎えをしながら、
投資顧問会社の研修に応募する。
研修は半年間無給なのだが、医療機器のセールスで食いつなぐ。
狭い崖の間を渡るようなギリギリの生活の中で、妻(?)は出ていく
のだが、そのときクリスは息子だけは手放さない。
自らが父親のいない状態で育ったから、「息子にだけはそんな
思いをさせたくない」という強い信念からだった。
原題は『The Pursuit of Happyness』。
「i」が「y」になっているのは、映画を観て確認してください。
Pursuitは「追求」ぐらいの意味。
「幸せの追求」ではなく、「幸せのちから」とした邦題は秀逸だった。
ストーリーのほとんどは苦難の時代を描いている。
その中で、幸せのかたちを探し求めるのではなく、
ただ「屋根のある場所で眠り、食っていく」ことを継続したかったに
過ぎないところが、単なるサクセスストーリーとは違う。
邦題の「幸せのちから」について考えてみたのだが、
最初は、「幸せになろうとするエネルギー」という意味での「ちから」
なのかと思った。
映画を観てその考えが変わった。
「幸せな状態が持つエネルギー」としての「ちから」という意味では
なかったか、と思ったのだ。
クリスはこの映画では、幸せを求めてがんばったのではない。
息子と暮らすという幸せな状態があったからこそがんばれた。
彼はたぶん、どんな豪邸に住もうが、いい車に乗ろうが、
「息子のいない状態は不幸だ」というだろう。
何よりも大切なのは息子との生活だった。
人によってはそれは子供ではないかもしれない。
自分が大切と思う「人」や「状態」との関係性が良好であること。
それこそが「幸せ」だった。
追究するまでもなく、彼は幸せだった。
あとは、寝床と食事が得られればよかったのだと思う。
この映画をつくった人は、そんなことが言いたかったんじゃないかな
と思うのだが、本作を見たほかの人はどう思ったでしょうか?