絶壁犬の救出劇

「あらぁ、犬があんなとこにおるやんか!」
ということで大騒ぎになったのが、徳島の絶壁に取り残された犬。
略して、「絶壁犬」。
「矢が刺さったカモ」は、「矢ガモ」だから、
「絶壁にいる犬」は、「絶壁犬」なのだ。
まったく異論のない命名法である。
まあ、冗談はさておき。
今回の出来事の情報を総合すると、周辺はこうなっているそうだ。
・救助された犬は動物センターにいったん引き取られる。
・その後、市民からの申し出に従って里親を探す
そして、その他の周辺情報はこうだ。
・その周辺には捨て犬が多く、野犬が数十匹いる。
・そのため保健所への捕獲要請や苦情がよくある。
・一日一〇匹の犬が処分されている。
・市民は野犬化した犬をおそれている
徳島で起こったこの出来事を、遠い東京の地でみるぼくは
どのようにとらえたらいいのか、少し混乱した。
私たちはのんきに「助かってよかったねえ」と言っていればいい。
しかし、地元の人はそうはいかない。
同じように「助かってよかった」というのと同じ人か、
別の人かはわからないが、「こわいから捕まえてほしい」
という人がいることも事実である。
同じ「市民」という言葉で語れば、
「市民」は犬を山に捨て、野犬化したので、
「市民」が保健所に、捕獲要請をしたと。
そして、ある一匹が絶壁に迷い込んだのを見た「市民」が
救出してほしいと通報し、「市民」が里親として名乗り出た
ということになる。
もちろん、犬を捨てた人と、「助けてほしい」と通報した人は
同一人物ではあるまい。
不特定多数の人を示す「市民」だから、実態がわからない。
けれど、これを日本人全体とするなら、
「目に見える<かわいそう>は見ようとするが、
目に見えない<かわいそう>にはあえて目をつむる」
という器質が見える、ということもできるかもしれない。
里親候補が名乗り出なかった場合、捕獲したあの絶壁犬は
どうなったのだろうか。保健所で処分されるのだろうか。
もし、本当にそうなるのなら、
「命をもてあそぶ」とはこのことだ、と言ってもいいだろう。
里親に立候補して、不運にもはずれた人のなかで、
保健所にいるほかの犬を引き取ろうという人はいるのだろうか。
救出するのは「レスキュー隊」、処分するのは「保健所」。
日本の縦割り行政は、こんな日本人の矛盾を
うまくオブラートで隠すことには効果的だ。
なんか今日は皮肉っぽくなってしまった。
生まれたての仔犬をあの山に捨てた人は、
あの救出劇をどんな気持ちで見たのだろうか。