映画『世界の中心で、愛をさけぶ』

世界の中心で、愛をさけぶ movie

いわずもがなの超ヒット小説の映画化です。
この作品を「メディアがつくったヒット」という人がいますが、
まったく的はずれな指摘ですね。
小説の著者と担当編集者は全国津々浦々の書店をまわって
長く平積みにしてもらうように頭を下げてまわったらしいです。
そうした努力のかいもあり300万部を超すヒットに
なったわけですが、10万部や20万部というレベルなら
メディアがつくることも可能かもしれない。
けれど、300万部となるとメディアの力では不可能だと思います。
何の力かというと、クチコミの力だと思いますね。
それほど人の心に深く浸透した物語だということです。
どういうわけか、あまり観る気になれなくて手に入れたDVDを
放置していたのをやっと観る気になった。
1時間15分が経過するころまでは、とても観ていられなかった。
どうしようもなく青臭くて感傷的過ぎてイライラした。
ところが、後半部分は一緒に観ている人がいなければ
間違いなく号泣していただろう、というぐらいストーリーに没頭した。
「こんなんなっちゃった」とか、「ロミオ参上!」とか、
おどけてみせるふたりが、どうしようもなく流されていく運命の力に、
混乱しながらも、必死に抗おうとしているのが伝わってくる。
青春時代特有の瑞々しい感覚が懐かしい。
愛する人の死を前にして混乱し、説明のつかない行動を
とることも無理はない。
そんな状況で万人に説明のつく行動を取れるほうが不自然だ。
愛する人を亡くすのはつらいが、残された者はそれでも生きて
いかなければならない。
死んだ者は自分のことを忘れてほしいとは思っていないが、
毎日思い出してくよくよしてほしいとも思っていない。
イキイキと生きていくことが故人への最良の供養になる。
けれど、主人公は「悲しみの過程」を高校時代にうまく経なかったため
ずっと引きずることになった。
悲しみに真正面から向き合い、涙を流して悲しみ、
最終的に受け入れるという段階を踏むことが必要だ。
悲しみから逃げて過去を引きずると、
のちに運命をともにする人に迷惑である。
長い時間をかけて整理される思い出もあると思うが、
事実から逃げていては前向きな人生は送れない。
「悲しみの過程」を経ることが、「後片付け」なのだと理解した。
故人への思いは忘れ去るのではなく、思い出として大切にしまっておき、
ときにそっと思い出してみんなで思い出を語ればいい。
観てみてよかったとか、感動したという以上に、
何かこう胸騒ぎのするような不思議な感覚に襲われた。
映画を観てこんな感覚になったのは久しぶりのことでした。
書籍のレビューを見てみると、
新しいレビューほど厳しい評価になっている。
原作がヒットしたというのをいったん頭から取り払ってみると、
また別の魅力が見えてくるかもしれない。