「辞める」ことの美学

サッカー日本代表中田英寿選手が現役を引退するという。
最初、代表を引退するのだと思った。
「え? 誰もまだ代表に呼ぶなんて言ってないんじゃなーの」
と思ったが、選手そのものを辞めるという。
これについて、広告代理店の関係者は、「絶頂期に辞めるのは
日本人の考え方に合っている」という意味のことを言っていた。
だから、CM起用の際の価値も下がらないということらしい。
ここで気になったのは、「日本人の考えに合っている」という点。
絶頂期にスパっと辞めるのは、果たして日本人の美学に
合致しているのか。
プロ野球の新庄選手もまだ余力を残しているのに辞めるという。
楽天の野村監督は現役時代、「最後は手取り15万円になって、
クビと言われるまでやる」と言った。
その通りに、45歳まで現役を続けた。
最後は「クビ」とは言われなかったが、彼は自分に代打を出されたとき、
その代わった選手に「三振しろ」と願ったことで、
「あ、こうなったらもう俺は終わりだな」と悟って自ら辞めたという。
ぼくなんかは野村監督の考え方のほうがカッチョイイと思える。


確かに日本の社会では執着することはあまりよしとされない。
日銀総裁だって、サッカー協会の会長だって、責任を取って辞めろ
と言われる。地位に固執することは「往生際が悪い」と評される。
往生とは言うまでもなく、死ぬことであるから、昔の武士のように
すっぱり〝ハラキリ〟がよしとされてきた。
日本的なものの良い面はたくさんあるけれど、
ぼくは「辞めて責任を取る」ことに関してはあまりいいことと思えない。
辞めても「トカゲのしっぽ切り」と言われるし、
マスコミの溜飲を下げること以外に何も生まない。
だったら、改善の姿勢を示してほしい。辞める以外の行動を起こすこと
のほうが責任のある態度と思う。
辞めるのはなんだか簡単で、無責任に見えるのだ。


翻って、スポーツ選手としての引き際を考えると、
自分なら人からどう見えようと、完全燃焼した時点で辞める。
これは人から見て「絶頂期で辞めた」とか、「ボロボロになって辞めた」
と判別のつきにくいものかもしれない。
心が完全燃焼したら、肉体的にまだ衰えてなくても辞める。
というか、辞めざるを得なくなってくる。
周りがどんなに「まだできる」「もったいない」と言ったところで
考えを改めることはできない。
一つ言えるのは、完全燃焼することが重要だということ。
完全燃焼しきれていないと、次にやることもうまくいかない。
ただ、一つのことに燃え尽きるまで打ち込むことは
そうそうできるものではない。
打ち込むものを見つけられたら、それこそが幸せ、と思う。