度量の広さがほしい

長い間、寝込んでいたホームレスのことについて前に書いた。
線路の下をくぐる通路に住んでいたホームレスだ。
その後、しばらく姿を見ないと思っていたら、ほどなくして
また床に伏せているところを見かけた。
するとまたほどなくして、布団だけを残して姿を消した。
それからまた数日して、今度はどうやら出かけた先から
帰ってきたような雰囲気を漂わせながら、
荷物を整理している姿を見かけた。
そして、その翌日から、今度は布団ごと姿を消した。
彼はどこに出かけていたのだろう。
新しい宿を求めて、下見に行っていたのか。
布団ごといなくなったのは、どこかに定宿を見つけたからなのか。
願わくば、その定宿が雨を凌げる屋根と、
風を避けられる壁があるところだといいのだが。


高齢者の年金額が減らされて、「交際費に回すお金が減り、友だちが
減った」「孫娘の結婚のお祝いもあげられず、惨めな思いをした」と
嘆いている高齢者をテレビで見て、いかにも贅沢な悩み
のような気がしてしょうがなかった。
人それぞれの人生を比べて云々することは決してできないけれど、
どうしても割り切れない、不公平さのようなものが残る。
「交際費にお金を使えない」と言う人も、
「孫娘にお祝いがあげられない」と言う人も、
「体調が悪い」と言って遊びや結婚式への誘いを断ったという。
そうして「惨めな思い」を感じさせているのは、
「お金がない」ことが「不幸」であるかのような
社会の雰囲気なのではないかと思った。
見得とかプライドのようなものが邪魔をする。
友人からの誘いを断らなくても、「120円のジュースを1本買って
公園でお話をしましょう」ではダメなのか。
娘からの誘いを断らずにはっきり窮状を話せば、祝儀なしでも
いいから式に来てくれと言うはずではなかったか。
それくらいの社会の度量の広さがほしい。
日本は、そうした度量の広さを求めて経済大国になろうとした
のではなかったか。
社会の度量が狭い今の世の中で、一人ひとりが周囲の人と協力するしか
この人類未踏の高齢社会を乗り切る方法はない。