映画『二十日鼠と人間』の2つのテーマ

二十日鼠と人間 movie

ノーベル賞ピューリッツァー賞を受賞したアメリカの作家、
スタインベックの代表的作品の映画化。(以下、ネタバレあり)
ぼくの中でのこの映画のテーマは「不完全なものの受け入れ」と
「本人のためとは?」です。
主演は渋い脇役が多いゲイリー・シニーズと『マルコビッチの穴』の
ジョン・マルコビッチです。
知識はあるが非力のジョージと、子ども並みの知性しか持たない
怪力のレニーという2人の農場でのお話。
彼らは農場で働くも、いつもレニーが起こすトラブルで追われ、
いくつも農場を渡り歩いていた。
ある大きな農場で仕事を得るが、またもレニーがトラブルに……。
話の中で、重要なくだりがある。
それは農場の清掃係を務める老人の飼っている老犬についてだ。
老犬はろく食べられず、異臭を放っていたため、宿舎で寝食を
共にする仲間から老人は責められる。
「その臭いには耐えられん。おれがその犬を始末してやる。
どうせもう長くないんだ。そのほうがその犬のためだ」
と言って仲間は銃で老犬を撃ち殺してしまう。
「間違いだった。自分の手で殺すべきだった」と老人は後悔する。
結局、ジョージは、農場の経営者の息子の若妻を怪力ゆえの「事故」で
殺してしまったレニーを銃殺する。
まるで老人の後悔どおりのように。
この話の中でまず考えたのは、死期を間近に控えて異臭を放つ老犬や
知性に乏しく社会的に不適合な人間など、「不完全なもの」への
厳しい現実である。
そして、そうしたものが「死なせたほうが本人のため」という理由で
殺されていく現実がある。
このような現実は今も世界中の人々の前に突きつけられている。
「果たして不完全なものは生きる資格がないのだろうか?」
「本当に本人のためと言えるのだろうか?」
劇中、レニーは死んだ二十日鼠を大事にポケットに持っているところを
ジョージに諭される。
「それは死んでる。不潔なんだ。きれいなやつならいい」と
皮肉にも不完全なものを愛でたレニーが、「本人のため」と思われながら
死ぬのがなんともやりきれない。
これら2つのテーマを底でつなぐものは、孤独だと思うのです。
ジョージとレニーを結びつけていたのは孤独からの逃避だったに
違いないし、老人の孤独、牧場主の息子の孤独、その妻の孤独、
農場には多くの人が働いているのに、この映画に出てくる人は
みな孤独なんです。
心に暗く重く沈んで、しばらく処理し切れそうにない作品でした。