かわいそうな今の子どもたち

自宅のすぐ近くにちょっとした、本当にちょっとしたお宮だけの
神社がある。そこに通ずる一本坂があって、草木が茂っていて
通勤によく使うお気に入りの道だった。
その道の様子が年末に様変わりした。
草が刈られ、枝が切られ、うっそうとした感じがなくなり、
見通しのよいただの坂道になった。
なぜか考えた。
年末に続発した幼女を狙った事件の影響ではないか。
そういう大人の目の届かないところがもっとも危険だから、
見通しのよい道にするために枝を切り、草を刈ったのだ。
一見よいことのように思える。
でも、なんかさびしい思いが残る。


子どもというのは、秘密基地みたいのが大好きで、
親や他の大人の目の届かないところでスリルを感じてたのしみ、
そこで何が危険かを見極め、友だちと協力して基地を運営して
いくことを学ぶのだ。
今の子どもたちはすべてに管理された中で遊ばされていて、
とてもかわいそうに感じる。
自分が男の子だったから自由に遊べただけで、女の子となると
そうもいかないのかもしれない。
ぼくはまだ親になっていないので、いざ親になってみたら、
車で送り迎えするようになるかもしれない。
岡山県倉敷市では登下校にタクシーを使うサービスが、
親の要請で始まった。親は不安でたまらないのだ。
そういうのがよくわかるだけに、なかなか悩ましいところだ。


昔も今も不審者はいた。連れ去り事件だってあったはずだ。
ところが、昔は子どもをタクシーで学校に通わせるというと
笑われたに違いない。
今の時代はそういうことが必ずしも過保護だと言えないようなのだ。
だが、子どもたちをすべて完璧に管理された場所だけで
遊ばせていていいのだろうか。一歩も外に出さず、
テレビゲームだけさせていていいのだろうか。
室内遊技場を経営する会社の社長さんに取材したとき、
「うちの施設で遊んで、軽いケガならしてもいいのだと思う。
そうしないと、ケガをしない方法も学べませんから」と言い、
記事にもそう書いた。何を言われるかわからないこのご時勢に、
とても勇気ある発言だったと思う。
そうなのだ。失敗せずには、失敗しない方法は学べない。
親の目の届かないところで遊んで、痛い目にあってこそ、
痛い目にあわない方法を身につける。
友だちとケンカして、痛がるのを見てはじめて力加減を知る。
何をすれば相手が傷つくかを知るのだ。
タクシーを使ったり、車で子どもを送迎するくらいなら、
下校の時間に、高齢者に街頭で立ってもらったらどうだろう。
高齢者たちならそれほど子どもを過保護に扱わないし、
子どもも高齢者の目を盗んで遊ぶはずだが、それでいい。
高齢者が街頭に立っているだけで不審者には効果がある
やっぱり地域で子どもを見守るというのが必要だ。
事件になってからでは遅いが、事件に過剰反応するのはやめたい。
何かバランスをとるいい方法はないか。


件の坂道にある桜は、枝が根元からばっさり切られていた。
今年の春はあの坂の桜をおがめそうにない。