ありがとうの基準

モンゴルに取材旅行に行ったある人たちの話を聞く機会があった。
よく聞きますよね、モンゴルのゲル。
遊牧民の彼らは、移動式のでっかいテントみたいな
住居に住んでいる。このゲルで各地を転住するのだ。
話を聞いた彼らは、二週間、泊めさせてもらったのだそうだ。
その代わりといっては何だが、ゲルの引越しのときに
彼らは引越しの手伝いをした。
その際、いっさい感謝の言葉を言われなかったのだそうだ。
なるほど、それなら朝青龍の態度もわかると言っていた。
「ありがとうの基準が違う」のだ。
どんな基準かは詳しく聞いていないのでわからないけれど、
感謝することへの態度が違うということなんだろうか。
そういえば、アメリカではホームレスの人々に金を渡すと、
彼らは「この金を与えてくれる人にめぐり合わせてくれた
神に感謝する」のだという。
日本人は、彼らにお金を与えても自分が感謝されないので、
拍子抜けする。これも「ありがとうの基準が違う」のだと言える。
よくよく考えてみれば、日本でもそういうことはある。
親が息子夫婦に、旅のお土産を送った。
親は当然、お礼の電話が来るものと待っていたが、来ないので、
自分からかけて「なぜ礼を言わないのか」と注意した。
息子夫婦もお礼の電話をしようと思ったが、つい言いそびれて
しまったのかもしれない。頼んでもいないものを送って
もらったから、ありがたみが薄かったのかもしれない。
本当は、お礼の言葉を期待するのは間違っている。
親は自分が送りたかったから送った。
それで自分は気持ちよくなっている。
「やさしい親」を演じられているからだ。
それ以上に、礼を期待するのは贅沢というものだ。
ここでも親と息子夫婦の「ありがとうの基準が違」っている。
礼とか見返りを期待するとろくなことがない。
みんな、「ありがとうの基準が違う」からだ。
自分は感謝するけれども、相手からの感謝を求めない。
そういうスタンスで生きているほうが楽なんじゃないかと
思ったりしている。