土曜日の夕方、電車に乗っていたときのこと。
隣の車両から男性の声がする。何か叫んでいるようだ。
彼は私たちの車両にやってきた。
浅黒い肌、メガネをかけ、作業用の帽子をかぶっている。
身長は160センチぐらいだろうか。年は70近いはずだ。
彼は座席の端の鉄の棒につかまり、大きな声で叫んだ。
「おい、お前ら若いの! ふざけるんじゃねぇぞう!
バカにするんじゃねえぞう。おれを誰だと思ってるんだぁ。
おう、やるかぁ!? 相手してやるぞぅ。
おれはなぁ、プロのボクサーで、3回戦ボーイだったんだぞぅ。
お前らが束になってかかってきてもな、そりゃ、
こっちとしては御の字だよ……」
「3回戦ボーイって…」私は噴出しそうになる腹の中を
抑えて、黙って聞いていた。
気が済んだのか、彼は私の前を通り過ぎていった。
すると、次は7人がけの電車の椅子の、もう1ブロック先に行き、
同じように鉄の棒につかまりながら、叫んだ。
「おい、お前ら若いの! ふざけるんじゃねぇぞう!
バカにするんじゃねえぞう。おれを誰だと思ってるんだぁ。
…(以下省略)」
私は笑った。こらえきらず笑った。
彼の人生にではない。彼の行動に笑った。
周りの乗客も最初は驚いていたが、最後は「しょうがないおじさんね」
という温かい目で彼を見ながら微笑んでいた。
いったい、彼に何があったのだろう。
日に焼けた肌から、普段、外で仕事をする人なのだろうか。
本当に元プロボクサーだったのだろうか。
酒を飲んでいたとはいえ、誰かにプライドを傷つけられるような
ことをされたり、言われたりしたのだろうか。
私は彼の人生に思いを馳せた。
土曜の夕方に、「おれをばかにするな」と電車の乗客全員に
言って回る人生とはいったいどういうものなのだろう。
彼は叫び終わると、また隣の車両に移っていった。
また、彼の心の叫びが聞こえる。
「……おれはなぁ、プロのボクサーで、3回戦ボーイだったんだぞぅ。
お前らが束になってかかってきてもな、そりゃ、
こっちとしては御の字だよ……」