看護師という仕事

友人に看護師の女性が何人かいる。
彼女らは重篤な患者や救急の患者を診ている。
話を聞いていると、絶対にマネしたくないほど過酷な業務を
毎日つづけている。本当に頭が下がる。
そんな彼女らもやはり人間だ。
医療関係者にとって人の死は日常であり、
そんな死にいちいち感情移入していては身が持たない。
だからドライに、事務的に医療業務をこなしていると思いがちだ。
だが、少なくともぼくが知っている彼女らは違う。
彼女らも患者の死に直面して涙を流すのだ。
医療の現場では泣くことはタブーとされている。
絶対にあってはいけないことなのだという。
なぜなのかはわからないが、ぼくは泣いていいのだと思う。
それで当然だとも思う。
ある一定期間世話をし、話をし、それなりの情もある。
そういう関係にある看護師と患者であれば、人間の情として
その死に対して涙することをとがめる人はいまい。
他の患者の対応に支障をきたすという理由もあろうが、
看護師という職だからこそ、人間的な感情を持ち合わせてほしい。
医療事故が起こる理由の一つには、医療関係者たちの感覚の麻痺
があると思う。あまりにも死が日常であるため、患者を、
一個のいのちを持った生体ととらえられず、
事務的に処理しようとしてしまうのではないかと思う。
彼らがそうなってしまうのもわからないではない。
死にたいしていちいち落ち込んでいては仕事にならないし、
精神的に参ってしまうだろう。
感情を押し殺し、ドライに、事務的にこなす――つまり、人体を
物とみなすことで、彼らはやっと医療行為を行えるのかもしれない。
だが、ぼくら人間の体は物ではない。
感情を持ち、切れば血が流れる36度前後の体を持った人間なのである。


ある日、看護師の女友達からメールが送られてきた。
ある患者の臨終に立ち会ったというのだ。その患者さんは立派な人で
家族に看取られながら息を引き取ったという。
彼女は、自分が立ち会う人間としてふさわしかったのか、考えて眠れない。
「看護婦失格?」そうまで思わせるものはなんなのだろう。
文面の裏にもっと多くの事情と悩みが隠されていると思った。
ぼくはこう返事を書いた。
「人は仕事をする上で自分の感情とか、主義主張とか思想、
信念とかをある程度、自分の内側に押し込めているところがある。
そうしないと、考えすぎちゃって身がもたなくなってくるんだよね。
だから多くの人は「現実を見ない、考えない」ようにしてる。
それが「割り切る」ってことだ。それも身を守る一つの術だと思う。
けど、看護婦という仕事は人間らしい感情とか、何かそういったものを
持っている人こそすべきだと思う。
自分が関わりをもった人の死について考えてしまって、眠れなくなって
しまう、そういう人こそ看護婦でいてほしいと思うな」
看護師の仕事を通して考えたことは、どんな職業にもあてはまる。
感情をぶった切り、ドライなビジネスの論理だけで
突き進んでいる事柄がこのところ多すぎるのだ。
どんなに辛くて、忙しくて、悲しくて、たとえ給料が安くても
人間らしい心だけは失うまい。