他人のことが理解できない理由

人間の注意力がどの程度のものか
有名な実験があるのをご存知ですか?
you tube」で「selective attention test」を検索し、
最も上の動画をご覧ください。
学生たち5,6人が入り乱れてバスケットボールをパスしあう
映像です。この40秒の動画で何回パスが行われているかを
数えるものです。
ではどうぞ!


やってみましたか?
実はこの動画は注意力をテストする実験ではありません。
(ここからはネタバレになります)
あなたはこの学生バスケットの中に、着ぐるみのゴリラが
悠然と横切っていたのに気付いたでしょうか?
学生たちが入り乱れながらパスする隙間を縫って、
ゴリラが乱入し、胸をドンドンと叩きます。
しかし、このゴリラの存在自体に気付かない人が多いのです。
実はこれは、人間の認知能力がいかにいい加減なものであるかを
立証するためにつくられた実験だったのです。
「私は自分の目で見たものしか信じない」とか、
「自分の目で実際に見ることが大事」などとよくいう。
だが、「自分で見たもの」の確かさがこの程度のものだった
としたら、どうだろう。
私たちの認知能力は、たとえ視覚であってもこの程度でしかなく、
他に気を取られている事柄があると簡単に見落とす項目が出てくる。
私たちは自分の見たいものを、見たいように見ているし、
聞きたいものを、聞きたいようにみているわけだ。
そして、私たちが見たり、聞いたりするこの世界は、
その人の主観的な世界であり、個人的な世界である。
私の世界と、あなたの世界は違う。
しかし、それだと世の中は進展しないから、たとえば、
「こういう感じの色を赤ということにしましょう」
「こういう事柄を〝葛藤〟と呼ぶことにしましょう」と
人々の最大公約数が落ち着くところで言葉が決められ、
共有することで、意思疎通を図っている。
ただし、これは大変あやういもので、だから見解の相違が出てくる。
そう考えれば、分かりあえないのも無理はない。
ましてや、人種の違い、国籍の違い、性別の違いで
理解が及ばなくなるのは当たり前なのだ。
他人のことなどわからないのだと思っていた方が、
「なんでわからないの」などと悩むことはない。
その時必要なのは、分かりあいたいと願う気持ちだけである。