「無条件で」は通用しない

校庭の芝生化の話をしたら、「芝生が土よりもよいことを、科学的な根拠で
示さないと、賛同する人は増えないのではないか」
と周囲の人に言われた。
私はびっくりした。
科学的な根拠など示さなくても、一度、芝生の上で寝転んだことがある
人ならば、その気持ちよさは言わずもがなであって、また、一度でも
芝生の上でボールを蹴ったり、走ったことのある人にとっては、
それは無条件に楽しい感覚であるのに、その「無条件」が通用しない
人もいるのだということに心底驚いた。
そうなのだ。
この場合、「当たり前」と思っていた私のほうが間違っている。
体験をしていない人にその良さを伝えるのは難しい。
「だって、たのしいじゃないですか」といっても、
「そうなんだ」といわれるだけなのだからね。
驚いたのと同時にさびしさを感じ、
そういう人は意外と多いのかもしれないと思った。
想像してみるより先に、科学的なデータや数字が必要なのだ。
前にも書いたように、人というのは欠損した経験がないと
それがあっても「ある」こと自体を認識できないし、
「ない」ことを残念がることもない。
戦争を経験していない私は、平和がいまここにあることを認識できないし、
飢えた経験がない人は、食べものをありがたく思うことが難しい。
芝生化への障壁は、こういう人々の心に巣食う見えない壁なのかも。
本づくりも同じことがいえて、いくら「これはいい話だ。みんな無条件で
賛同するに違いない」と思った話でも、「そんなにいい話かな」と
言われる可能性がある。
普通の人の感覚でいることが、いかに難しいかということを
思い知らされる。