ルーツを探る

この年(34歳)になると、自分のルーツなんかを探ってみたくなる。
誰にもそういう時期が一度はある。
子どもができたりして、ふと血のつながりなんかを考えるとね。


いま私は府中に住んでいるが、府中には東西に走る人見街道
いうのがあり、浅間山のふもとに人見稲荷神社が鎮座している。
実は、母親の旧姓が人見であるので、少し気になってはいた。
そのまま時は流れ、府中に過ごして11年目になった今年、
浅間山を散歩したことがあった。
そこで人見四郎の墓というのを見つけた。
人見街道はこの人見氏からきてるのか」というのが最初の発端だった。
気になったので、人見四郎を検索すると、
かなりの人物であることがわかった。
初代の人見四郎は現在の埼玉県深谷市人見の出で、
平家物語では一ノ谷の戦の場面に源氏方として登場する。
子孫に同じ名前の四郎がいて、こっちの四郎は太平記に登場。
14代執権北条高時に仕えていたが、元弘の乱の際に朝廷側の楠木正成
河内の赤坂城に攻め、先人を切って戦死したという。
もとは埼玉の出の人物で、府中は武蔵国国府(今でいう県庁所在地)
だったため、幕府の武士だった人見氏の屋敷が府中にあったのではないか
という話らしい。
府中には分倍河原の戦いが行われた古戦場があって、その一連の戦いで
武蔵国分寺が焼失したのだが、これらの戦いにも残された一族が戦禍に
巻き込まれたのだろう、丹波国(いまの京都)の亀岡に移住する。


深谷、亀岡と岡山がつながるのかな……」
と思いながらネットでいろいろ調べていると、
岡山市日応寺に住む「人見さん」のブログに行き着いた。
私の母親も日応寺出身なのである。
そこには日応寺周辺は8割がた人見姓であること、
この人見姓は、
「1582年、のちに天下統一を成し遂げた武将より
授かったと言われている」との一文を目にした。
「人見姓は秀吉から授かった?」
さっそくこの人見さん(HNは「HOTEI。」)
にメールで連絡を取ることにした。
するとすぐに返信をいただいた。
以下はその人見さんの話である。


時は戦国時代。
織田信長が本能寺にて明智光秀に討たれたとき、
羽柴秀吉は備中高松上の水攻めの真っ最中だった。
「信長討たれる」の報を聞いた秀吉は、大阪に取って返し
天王山の戦いで逆臣・明智光秀を討つ。
世に言う「中国大返し」である。
高松城水攻めのとき、秀吉軍が最初に陣を張ったのが、
龍王山でその近くに十二本木山という山があり、
その麓にあるのが日応寺である。


高松城に陣を張る清水宗治公の軍勢数を知るため
怪しまれぬよう地の人を偵察にやったのではないかと思われます。
その偵察内容(軍勢数など)が的確であったため
秀吉から?人(数)を見るのに優れていた?ということで
人見姓を授かったと聞いています」


とのことだった。
叔父がいまでも日応寺に住んでいるため、母親を通じて
人見姓について聞いてみた。
日応寺で同じ人見でもいくつかの流れがあるとのこと。
ますます謎は深まるばかりだ。


というわけで、人見四郎の一族と郷里の人見姓につながりはなさそうだ。
人見といえば、日本人初の女子オリンピックメダリスト・人見絹枝
岡山出身だが、どうやら彼女の出身地にも人見姓が集まる土地があるそう。
どうやらこっちのほうが深谷・亀岡とのつながりがあるという説もある。


ところで、ネットの情報から府中図書館で「人見四郎の墓跡についての
調査」を記した文書があるらしいのだが、見つけることはできなかった。
また見つかったらブログで報告することにしよう。