一周することの大切さについて

編集者と本のタイトルを決めるために話し合うことがある。
だいたい少なくとも30個以上の候補から選ぶ。
タイトルは出版社が最終的に決められる事項であって、
著者やライターは意見を出すことしかできない。
編集者とタイトルを決めるとき、
最初に出たオーソドックスなタイトルに落ち着くことがある。
あれこれと奇をてらったものや、意表をつくものもあったのに
結局これかと思うときもある。
あんだけ議論したのはナンだったのかと思うときもある。
でも、あるときふと編集者が言ったんですよね。
「一周して考えてこれに落ち着いたので、
やっぱりこれがいいと思うんです」って。
「一周」って、意味わかりますか。
最初に考えた案があって、「これじゃあんまりだよな」って
他の案を考えるでしょ。すると、結局スタートしたところに戻って、
「やっぱこれだな」って決まる。
こうやって決まったものって、最初のスタート地点にあったものとは
絶対違うんですよね。ものは一緒でも送り出す側の心境が違う。
つくる仕事をするには、この「一周」が大事だと思うんです。


考えてみれば、話の中でもそういうことがいっぱいある。
「一周」を経た話なのか、スタート地点にあった話なのか。
たとえば、誰かが「涙の数だけ人は優しくなれる」って言ったとします。
一度恋愛しただけの若者が言ったって、
「スタート地点で何を言うとる!」ってなります。
でも、いろんな経験をして、いくつも挫折して、
「涙の数だけ優しくなれるわけないじゃん」的な時期も通り過ぎて、
「やっぱ涙の数だけ人は優しくなれるんかもな」って
ポロッと言ったときに、人は感動する。
これはスタート地点にあった言葉とは違う。
バックボーンがあるもん。ヒストリーがあるもん。


いつもだいたい、「いままでAだと思ってきたけど、Bだった」という
ことの積み重ねで生きてきている。
どっかにあると思っている正解にたどり着きたいと思っている。
で、AとBの間をいったりきたりしている間にCに行きついたり
してしまったりするんだけど、そこからまたAにいったりする。
こうやって、AやBやCを行き来することが大事。
どうしてAやBやCに行き着いたか、その歴史が大事。
たぶん、AもBもCも全部正解。自分なりの正解。
一周したら(いや、二周でもいいんだけど)全部正解。
そういうことだと「今のところ」思っている。