「承諾殺人」

タイトルの言葉を初めて聞いた。
新聞の地域面で読んだ小さな事件の記事。


ぜんそくの発作で苦しむ実母(当時77歳)を絞殺したとして、
「承諾殺人」の罪で55歳の息子が問われた事件だ。
被告は車椅子の母の介護を熱心に続けていたが、日頃から
「苦しくて死にたいときは楽にしてあげる」と母に約束していた
という。「苦しみから救うために安楽死させた」と語ったが、
検察は「これは安楽死ではない」とした。
うつ病の母親、ぜんそくの発作で精神的に弱り、死にたいと
思っただけではないか」と問われると、
「母が死にたがっていると思い込んだのかもしれない」と
被告は呟いたという。さらに、「お母さんは幸せだと思うか」と
問われると、「わかりません」と答えたあと、
証言台に突っ伏し、「なぜあの時、ああなったのか」などと
声を上げて号泣したという。
検察は懲役4年を求刑しているが、弁護側は自首していることなど
から執行猶予付きの判決を求めた。


記事はこういう内容だったが、これまで「嘱託殺人」とか「介護殺人」
は聞いたことがあったが、「承諾殺人」はなかった。
今回の場合、「承諾殺人」は「嘱託殺人」と同義だろうと思う。
本人から依頼されたわけではないが、母の同意があったという
ことなのだろう。
この記事をきっかけにこんなことを考えた。
介護疲れによる殺人は、一生懸命で真面目な人ほどやってしまうと
言われている。介護を一手に引き受けた結果、疲労困憊し、
正常な判断が下せないようになり、思いつめてしまう。
一般的な「介護殺人」については、周囲に助けを求めることが
大切だと思う。
公的なサービスを利用する、生活保護を受けるなど、追いつめられる
前にできたことはたくさんある。
それを許さない日本的風土がある。
公的サービスを受けることや、老人施設に利用することが、
「姥捨て山」であるとするような風土だ。
「身内の恥をさらしたくない」という思いが見え隠れする。
生活保護を頑なに拒否し続けて、餓死するという事件もあった。
核家族ばかりになり、親と離れて暮らす子どもが多い今の社会で、
他人の手による介護や援助は絶対に必要だ。
その一方で、人の世話になるぐらいなら死んだ方がましと考えて、
自殺する高齢者も多い。自殺する人の中で高齢者が最も多いのだ。
痴呆など病気で苦しんだり、下の世話が必要になったとき、
「他人に迷惑はかけたくない」と自殺するのである。
私はよく思う。「他人に迷惑はかけたくない」というのは一見、
すばらしい考え方のように思えるが、では体の不自由なく、
過ごせているうちは「誰にも迷惑はかけていない」と言えるのかと。
私はここに人間の思い上がりをみる。
生きようと死のうと、誰にも迷惑をかけないで過ごすことなどできない。
若く体の自由のきく人々も絶対に誰かに迷惑をかけながら生きている。
だからこそ、「迷惑をかけたお返しをしたい」という思いが
生まれてくるのではないか?
「誰にも迷惑をかけていない」「私は私でやっていく」
それって本当か? 全て1人で完結できるのか。
「迷惑をかけたくない」と考える人は、苦しんでいる人をみても
手を差し伸べようとしない人だ。
迷惑をかけないなどという、思い上がりをいっさい捨てるべきだ。
他人には迷惑をかけてよい、その代わり他人の役に立つように
生きることである。
若い連中の中には「年をとってよぼよぼになってまで生きたくはない」
という思い上がった者もいる。
そういう人は、「よぼよぼになった高齢者」の存在価値を認めない
人間に育つ。障害者やホームレスなど社会的弱者の存在を認めない
人間に育つ。「自分だけは」というのは言い訳にならない。
自分ひとりで育ったわけではないのに、「死ぬときは自分らしく」など
とはなんと尊大な考え方だろう。それはあまりに身勝手ではないのか。
このように考えた上で、件の事件について考えてみると、
「承諾殺人」に及んだ男性の周辺に、誰か手を差し伸べる人が
いなかったのかと思う。
他人の不幸や苦しんでいることに無関心であってはいけない。
「自分だけで生きているわけではない」ということは、慰めにもなり、
戒めにもなる。
考えがまとまったら、「延命治療」についても書いてみることにする。