「隣り合わせ」 

以下に書いた長い文章は、私がちょうど2年前に書いたものです。
話の中の小ネタが古くなってきたので、ここに載せて
みる気になりました。
長いので、その点、心して読んでください。
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隣り合わせ


休日になると、たまに自宅近くの川の土手を自転車で疾走する。
気分によっていくつかのコースの中から選ぶ。気が向いたところでUターンして戻ってくるだけの気ままな自転車紀行だ。
12月のあの日も、私はのん気に自転車を走らせていた。
あんなことが起こるとも知らずに……。


晴れた日曜の午後一時ごろのこと。私は家を出て、自転車を走らせる。
ものの3分ほどで川の土手にたどり着く。今はこの川もきれいになった。つい15年ほど前までは汚れた川の代名詞であったこの川も、生活用水を浄化して流すようになったことで今ではアユが生息するまでにきれいになった。
そよ風に乗った川らしい臭いが私の鼻の神経を刺激する。子どものころの川遊びを想起させる瞬間だ。
ペダルにぐいと力を入れ、土手を走る。頬に当たる風が心地よい。師走といえども風はまだ顔に針が指すような冷たさはない。吐く息はうっすらと白く、しだいに息はあがり、重ね着した衣服の下にもうっすらと汗がにじんでくる。
土手は1.5メートルほどの幅の舗装道路がずっと続いている。左側通行で、自転車をこぐ人、ジョギングする人、インラインスケートに興じる人などさまざまである。
土手から見下ろす河川敷ではサッカーの練習に汗を流す少年たち、体操をするおじさん、横手投げで平たい石を川面に投げ込んでいる若者、冬だというのに草野球をする元気のいいおにいさんたちもいる。


20分ほど川の上流のほうに走ったところで舗装道路が終わりになる。その近くの自販機で飲み物を買い、土手の斜面に腰を降ろし、少年野球の練習風景を眺めながら一服するのがいつものパターンだ。
土手を降り、自販機の前へ。
私はジーンズの右後ろのポケットをさぐり、ボロボロになっているあれを取り出そうとした。


その瞬間というのは非常に切ない。
空虚で、かつ現実感のない感じ。
手応えのない、寂しさが募る。
いつも右うしろのポケットに入れているあれがない。
そう、私は財布を落としたのだ。


私の顔はみるみる青ざめていった(はずだが、自分で見ていないのでわからない)。私の体からはさっきの心地よい汗とは明らかに違う種類の嫌な汗が、体中の汗腺という汗腺から噴出しはじめた。
私の皮膚の表面は、ラードを浮かべたとんこつスープのような様相を呈してきた。財布には銀行や郵便局のキャッシュカード、クレジットカード、それに慶應義塾大学の創設者を描いた日本銀行券が7、8枚(!)も入っていたのだ。
次の給料日までは3週間もある。それまでの生活費を失うばかりか、キャッシュカードによって残高が10円単位になるまでお金を引き出され、クレジットカードを気の済むまで使い込まれてしまうかもしれない。


さらに私は、思いつく限りの悪い状況を脳裏に並べてみた。
現金がなくなれば、私のこれまで5年間の社会人生活で爪に火を灯すようにして貯めてきた、なけなしの貯金を、約2兆円の公的資金を注入された実質国営銀行から取り崩さなければならなくなる。
銀行に貯金があればまだいい。その貯金さえもキャッシュカードによって全額引き出されているかもしれないのだ。
暗証番号があるではないか、という考えは甘い。暗証番号などは誕生日や電話番号などにしていなくても、今や簡単に見破られてしまう時代なのだ。
私の五年間の汗と涙と、血は出なかったが、そのようなものが一瞬にして無に帰すのだ。
さらにクレジットカードによって、幸運を呼ぶ磁気ネックレスや、蒸気で汚れを浮かせて取るクリーナーなどを通信販売でゲットされてしまうかもしれないのだ。
クレジットカードで買い物をされるだけならいい。さらにキャッシングされてしまったらどうなるのだろうか。
自分の財産がなくなるばかりか、今度は借金を背負わなければならなくなってしまうのだ。
借金が返せなくなり、闇金融に借り換えを迫られ、ブラックリストに名前が載り、挙句、自己破産し、一家離散、お家断絶、殿中でござるのごとき忠臣蔵のような末路をたどるかもしれないのだ。
借金のほかにもさまざまな不都合が生じる。ツタヤにも会員カードを紛失してしまった旨を報告せねばならないし、最近通っている耳鼻咽喉科クリニックの美人の受付嬢にも診察券をなくしてしまう出来そこないの人間として烙印を押されてしまうかもしれないのだ。


仏教には因果応報という言葉がある。
ざっくばらんに言うと、いいことをすれば回りまわって自分にもいいことが起こるし、反対に悪いことをすればそれも自分の報いとなって返ってくるという考え方だ。
では、私が何をしたというのだ。
私は道路交通法以外の法律は犯していないはずであり、誰からも殺してやりたいと憎まれるほどの人物でもないと自覚している。
つまり、刑事においても民事においても何ら人に後ろ指を指されるような人間ではないはずなのだ。
ところが、どうだ、この仕打ちは。神も仏もないとはこのことだ。あんまりではないか……。


とりあえず、もと来た道を急いで戻った。往路に私の財布が今でも落ちているかもしれないのだ。
土手の舗装されている道路の右側を注意深く見ながら、自転車を急ぎ走らせる。
もしかしたらもう誰かに拾われているかもしれない。拾ったのはこの若い夫婦か、それとも年季の入ったこのじいちゃんか、それとも鼻ピアスのこのにいちゃんか。
すれ違う人すべてが悪人に思えた。


いや、待て。
たとえ財布を落としたとしても、拾った人がどうして悪い人ばかりであるだろう。日本はGDPでいえば世界で2番目の経済大国であり、不況だといっても世界で最も裕福な国の人たちなのだ。さらに最も安全な国の一つでもある。
きっと拾った人は「名乗るほどの者でもありません」とか、「私は当然のことをしたまでです」などといって交番に私の財布を届け、何の金銭の見返りも求めず、厳かに立ち去ってくれているかもしれぬではないか。


いやいや、待て待て。
私はそもそも財布を持ってきていなかったのかもしれない。私の財布は部屋にちゃんとあり、私は独り相撲を取っているだけなのかもしれない。
しかし、そんな思いも本当に財布を落としたときの事態が頭をかすめるたびに、あっけなく雲散霧消してしまうのだった。


とにかく、なにしろ、早くどちらかはっきりさせなければならない。財布を落としたのであれば、すぐに関係しているすべての金融機関にカードを停止する旨を申し伝えなければならない。
最近のカード窃盗団を甘く見てはいけない。彼らは数時間のうちに全財産を奪い去り、そればかりか借金までさせるのだ。骨までしゃぶりつくすのが彼らのやり方なのだ。
私は、ふだん祈らない八百万の神について想った。
「お願いです、神様、仏様、菅原道真様。私はこれまで熱心な信者ではありませんでしたが、これからは敬虔な教徒としてイスラム原理主義を貫いて行きます。だから、どうか財布よ、部屋にあってください。私を助けて……」
私はペダルに力を込めた。自転車は一縷の望みを載せて土手を走った。
息も絶え絶え。
こんなに息が上がったのは、あの日、旅立ってしまう彼女を、成田空港に引き止めにいったとき以来だった……。


アパートに着き、自転車をアパートの壁に立てかけ、2階の自室まで階段を駆け上がる。部屋のドアの前まで行き、鍵を鍵穴に差込み、右の手首を右側に90度回転させる。カチャッという音とともにドアを引き開け、一歩中に入り、乱暴に靴を脱ぎ捨てて部屋の中に進み、いつも財布を置いている机のほうを見やった。


財布の中身は、なくなって本当に困るものは何もない。
少しの間、不便を強いられるだけのことだ。
お金のことは、また働けばいいことだ。
ダメ人間の烙印を押されようと、どうということはない。
そんなことはたいしたことではない。
財布を落としたくらいで世界中の不幸を全部背負ったような気になることはない。
大切なことは、我が身の不遇を嘆くことではなく、不幸をどうにかして受け入れ、その後の人生をいかに有意義なものにするかだ。


財布は部屋の机の上にポツンと置かれてあった。
「何やってんの?」とでもいった表情をした財布がそこにあった。
そもそも私は財布を、この気ままな自転車紀行に持っていかなかったのだ。
私は歓喜と安堵と疲労の順で感情を消化し、部屋の床に転がった。大きく息をついた。まだ心臓の鼓動は早いままだ。
私の脳の酸欠が、見慣れた部屋の天井をぐるぐる回らせていた。
私はこみ上げてくるものを抑えることができなかった。昼に食べたものではない。苦笑いと嘲笑を足して2で割ったような含み笑いを抑えることができなかったのだ。
これでなけなしの預金を取り崩さなくて済む。ダメ人間の烙印を押されずに済む。ありがとう、菅原道真様。


しばらく私は部屋の床にころがり、至福のときを味わった。
私は幸福の絶頂にあった。
何か状況が好転したわけでなない。大金が転がり込んできたわけでもなく、美女から愛の告白をされたわけでもない。いつもの天井と、何も変わらない厳然とした現実がそこにあるだけだ。
それなのにこの幸福感は一体なんだ?


取りこし苦労とはこのことだ。取りこし苦労をしておいて、ああよかったと人はいう。
だが、本当は何もよいことなど起こっていない。
私たちが勝手に悪い状況を並べ立て、勝手に悲観し、勝手に安堵しているだけなのだ。
そのかわり、本当に悪いことも、何も起こっていないものなのだ。
ハピネスなんて、所詮そんなものだ。
何かいいことがなくても、毎日無事でいられることの幸せ。
あって当然のものがある幸せ。
このことは、誰かが私にそのことを教えるために起こった出来事だったのである。