「私の中のあなた」

二か月ぶりに映画を観ることができた。
タイトルは「私の中のあなた」なんだけど、
「MY SISTER'S KEEPER」となっている。
白血病におかされた長女ケイトと、長男、次女サラ、両親という
5人家族の物語。
病気をもって生まれた長女を救うために、次女は人工授精で生まれた。
臍帯血にはじまり、骨髄のドナーなど、何度も幼い身体に
針を刺さなければならなかった。
だから、次女が「MY SISTER'S KEEPER」というわけだ。
次女は、今度は腎臓移植を強要されそうになったとき、
もう姉のために自分が利用されるのがイヤだといって、
「自分の身体を自由にする権利」を得るため、優秀な弁護士を雇う。
長女は高校生で、次女はまだ小学生だ。
まだ年端もいかない子どもが起こした訴えには、
実は重大な理由があった。


(ここからネタバレがあります)
娘から訴えられた母親サラは、「正気なの?」とアナに詰め寄る。
でも毅然とつっぱねるアナ。
「腎臓が1つになったら、おもいっきり運動もできなくなる。
プールで泳いだり、チアリーダーになったりしたいの。
私は私のやりたいことができなくなるのはいやなの」
父親はアナの言い分に理解を示すが、母親は受け付けない。
「ケイトを助けたい」一心で暴走するサラ。
そんなとき、サラの妹はこんな一言をいう。
「『絶対にあきらめない母親』をやめたらどうか?」と。
でもサラは「I can’t」としかいえないのだった。
主人公はアナかと思ったら、次第にきょうだいや両親が仲良く
暮らすシーンが続く。
単にアナが私利のために訴訟を起こしたのではないことが暗喩される。
そして、法廷でのシーン。
裁判が佳境になるなか、長男が叫ぶ。
「ケイトは死にたがっているんだ!」と。
そう、自分の死を受け入れ、死期を悟ったケイトは、
自分の命を支えている、不憫な妹に頼んで、これ以上、不毛な治療を
させないために、母を訴えさせたのだった。
プールで泳ぐのも、チアリーダーもケイトの入れ知恵だった。
「ウソよ! そんなことケイトから聞いたことない!」
「ケイトは100万回もそう言った。君が聞く耳を持たなかった」と
夫に諭されるサラだったが、それでも自分の信念は曲げられないのだった。
ケイトはベッドで母親を抱いていう。
「いい人生だったわ。悲しまないで」
娘の、母親へ示す最後の愛情だった。


この映画について思ったことと、それを発展させて考えたことの
二つを書きたいと思う。
まず思ったのは、この母親を非難する向きもあるかと思うが、
「自分の母親としての評価」を得たいためでなく、
娘の未来を案じての行動だったということだ。
暴走する母とそれを止めようとする父と子どもたち。
彼らの思いは一緒で、「ケイトを助けたい」という一心だった。
だが、それぞれ方法論が違う。
延命させたい母と、楽にさせてやりたい父と子どもたち。
この違いはなんとなくわかるような気がするのである。
母親の子に対する感情は、父の子に対するそれとも違うし、
きょうだい間の絆とも違う。
母親というのは、子どもと一体であるし、距離感が他の家族よりも
圧倒的に近い。ほとんど分身のように感じている。
これは認知症の現場でも同じだそうだ。
他の人が「認知症からしかたない」と思える言動も、
親子関係にあるとそれが理解できず(受け入れ難く)、
「どうしてこんなことができないの!」と激高してしまう。
距離感が近すぎるゆえに受け入れられないのだ。
だから、この母親サラも「娘の死」を受け入れられない。
どっちが正しいという話ではない。
母親というものはそういうものなのだろう。
ケイト自身、自分はもう長くないと悟り、楽になりたいのだし、
そのためにつらい思いを妹にさせたくない。
かといって、自分のために人生を犠牲にした母親の思いを踏みにじり
たくもない。自分の思いと、母親の思い、妹の思いによって
引き割かれている。
家族それぞれの気持ちが丹念に描かれていて、死をどう扱うかという
ことにおいて、非常に考えさせられた。


この映画から考えたことがいくつかある。
映画では最後に家族みんながケイトの死を受け入れたかのごとく
終わっているが、いわば「延命治療をやめる」という選択をしたときは、
それだけでは終わらない。
必ずあとになって「ほんとはもっと何かできたのではないか」と
悩むはずである。
アナにしても「最終的に姉を殺したのは自分ではないか」と
悩むはずなのである。
そして、「私は死にたい」という思いを叶えさせるときには、
必ず自殺幇助の問題がつきまとうことである。
「不治の病なのだからしかたない」
「耐えられない痛みに泣いて暮らすぐらいなら楽にさせてやれ」
というが、不治の病とは誰が決めるのか、「耐えられない痛み」とは
どの程度のことをいうのか。その線引きは誰が決めるか。
「尊厳ある死」を考えるときは、自殺幇助の問題もセットにしなければ、
ルールが悪用されることがありうる。
つまり、現在のように高度に医療が発達した状況下では、
「どんどん死と生の境があいまいになっている」のであり、
何をもって死とするかは、新しい治療法が開発されるたびに
常に考えておかねばならないということだ。
そうでなければ、私たちはその新しい治療法を使いこなすことができず、
そればかりか、それがあるために余計な心労を重ねることになる。
「死んだも同然の人」や「これから死のうとする人」をどのように扱うか。
このとき、二つのことを考えておくべきだと思う。
ひとつは、「その治療は誰のためのものか」ということ、
もうひとつは、本人のためという結論が出た後、
「それが本当に本人のためになりうるか」ということである。
最新の治療はしばしば「残される人のため」に行われることがある。
「私たちは最善の道を尽くした」と思いたいからだ。
自分たちのためでなく、本人のためと思えたとしても、
本人の意識不明で意思を問えない場合はどうするか。
残される人たちが考えるしかない。
これは善悪の問題ではなく、生き方の問題だ。
命を救うことは疑いもなく正しいと誰もが思うから
今後も医療技術は「悩むことなく」前進する。
しかし、その技術を使いこなすときには知恵がいる。
知恵がないときには大いに悩むことになる。
誰もがそれぞれの距離感で、それぞれのやり方で、
床に伏せている人を救いたいと思うけれど、
すべての人を納得させる方法を見出すのは難しい。
そんななかで、いまできるのは、
「いつも死について考えていること」しかないと思う。
そうして下した決断だったら、悩み苦しむことはあっても、
時間が経った末に、最後は結果を受け入れられるのではないか
そんな気になった鑑賞後だった。
決して後味は悪くないので、ぜひともお勧めします。