自由と人権

北朝鮮から脱出する人たち、いわゆる脱北者を支援する団体に
所属する知人(Aさんとします)がいる。
ぼくは彼に一度、聞いてみたいことがあった。
「仮に、ある未開の村に、いけにえとして少女の命を奪う風習が
あるとします。五穀豊穣を願うためにそういう儀式が必要です。
これを村の外の人たちがおかしいといって、糾弾することが、
本当に人権を守ることになると思いますか?」
彼の答えはこうだった。
「私は人権とかそんな大それたことを考えたことはない。
ただ、自分のエゴとしてやっているだけです」
自分のエゴというのは、至極明快でわかりやすいではないですか。
たぶん、そうでなければ続けられないと思います。
冷たいようだけれども、ぼくとしては、
村の掟とされているものを、部外者が人権にもとると言って
文句を言えるようなことは一切ないと考えます。
それがどんなに人間としてあるまじき行為だったとしてもです。
外から「それは間違っている」というのは簡単です。
でも、先に出した例のように、そうした儀式をすることで
保たれている秩序があると思うのです。
間違っていると糾弾するのは、価値観の押し付けに思えるのです。
私たちがどんな神社にお参りしようと、外から「それは間違っている」
と言われる筋合いのものではないはずです。
私たちのメンタリティーを持って、私たちなりの考え方で
やっているからです。
さて、そういう考えを一通り述べたところで、そこに居合わせた
別のある人がこう言ったのです。
「でも、その村の中にも〝間違っている〟と思う人がいるはずで……」
と言ったところで、ぼくはこう反論しました。
「だったら、その村から出ればいいことでは?」
そこでAさんが声を大にして、
「そう、それ。そこなんですよッ!」と言うのです。
「おかしいと思えば、出て行く自由があるとぼくらは思っている。
でも、出て行く自由がない場合もあるんですよ」
そう言われて、ぼくは黙り込んでしまった。
情報が入ってきて、世界の情勢を見れば、自分たちがやっていることに
疑問を持つ人が出てくる。
そういうとき、そうした規範の外に出て行ける自由がある国と
ない国がある。出て行くということが、そのまま死を意味する
という国や地域が実際に存在するのです。
私たちは出て行く自由があるのに、ここにとどまっているのは、
不満がありながらでも、ここに何らかの愛着があるからでしょう。
出て行く自由がなかったら、たぶん窮屈でしょうね。
そして、出て行く自由がないからこそ、そのコミュニティーでの
秩序が保たれるということでもあるのです。
もし、いけにえになる少女が自分だったとしても
そこで生まれたことを受け入れ、どんな処遇も甘んじて
受けるという選択肢しかぼくにはないような気がします。
これにはAさんも同意してくれました。
「ぬくぬくと日本で暮らしているからだ」と言われても結構です。
「かわいそうだから」という情緒では、この問題は語れません。
私たちは、自分が生まれた国や時代に即した考え方しか
できないようになっています。
そのように教育されて育ってきたからです。
他の国、他の時代に生まれた人もそうです。
だから、他の国や他の時代に生まれた人の考え方を、
自分の考えと比べて「間違っている」とは言えない。
「他を尊重する」ということが必要です。
ところが、ここまで考えてもやっぱり「人間としてどうなの?」
という疑問が頭をよぎるのは確かです。
出て行く自由さえないのは、人間としてどうなの?とも思う。
上に書いたようなことが、まったく疑いもなく断言できるかというと、
そんな自信はありません。
答えは出ません。
自由とか人権について考えさせられる議論でした。
(この話は特定の国や地域について述べたものではありません)