『人間の往生』

前著『「痴呆老人」は何を見ているか』がとてもおもしろかったので、
今回も購入して読んでみました。
それにしても新潮新書はいい本ばっかり出てますね。
前回の内容よりも平易になっており、人はみな自分の紡いだ意味の世界に
住んでいることを前提に話は進みます。
なかでも印象に残ったのはこの一節。


手をうてば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ
女中は茶と聞く 猿沢の池


「自分」をつくっているのは、過去の経験と記憶によるもの。
だから、同じ手を打つパンという音でも、過去の経験と記憶から
女中はお茶をもってこいということだな、
鯉は餌をくれるんだなと理解する。
過去の経験と記憶がみなそれぞれ違うから受け取り方も違う。
そして、過去の経験と記憶があるから、
「今、私は、パソコンで、文章を、書いている」
と認識することができ、「私」を確認できる。
この過去の経験と記憶がほどけていくのが認知症である。
そうなると自分が誰だかわからなくなる。
最新の脳科学によると、「私」などというものは幻想であるという。
そして、人間が意識できるのは、五感などのあらゆる感覚器から得られる
情報のわずか5%だという。95%の情報は無意識のうちに処理される。
つまり、95%の情報は思考回路を経由せずに処理される。
ならば、「私」などというものは存在しないと考えたほうが楽である。
「本当の自分」と現在の自分のギャップに悩むこともない。
私の捉えた世界と、あなたの捉えた世界が違うのが当たり前なのだから、
ケンカすることがあっても当たり前なのかもしれない。
他にも大事なことが書かれてある。
認知症の症状である妄言や徘徊は、不安から起こるといい、
その不安はつながりの欠如からくるのだという。
それはそうだ。私たちも、家族、親族、友人、会社、地域社会と
つながっていると思えるから安心していられる。
これがなくなったら、浮き草のようで不安だと思う。
この点を考えただけでも、無縁社会より有縁社会のほうが
人間らしい生活が送れるだろうと予想できる。
老いや最期の迎え方を考える上で非常に興味深い本だった。