なんだかしっくりいかない。
どうも釈然としない。
そういうことってありますね。
世の流れとして犯罪者に対しては厳罰化である。
死刑判決がこのところ格段に多くなった。
で、先日、足利事件でDNA鑑定の誤りが指摘され、
冤罪であることがほぼ確実となったことが報道されていた。
今ならもしかしたら死刑になっていたかもしれない。
厳罰化にしろ、死刑にしろというが、人間が人間を裁く以上、
冤罪の可能性はゼロにはならない。
メディアがその最たるものだが、
厳罰化せよといういっせいに唱える一方で、冤罪が明らかになれば
元容疑者がかわいそうだといっせいにやる。
そのわりに芸能人の不祥事に対してはやさしい。なんかおかしい。
場当たり的すぎる。
厳罰化せよ、死刑にせよ、というのであれば、
冤罪の可能性について、きちんと検証される制度に
なっていなければならないと思う。
警察の取調べが強引であることや、自白主義であること、
検察や裁判官はタテ社会であり、純粋に正義を守ることと
別の力学が働くことを前提としたシステムになっているかどうか
検証することが必要ではないか。
警察は検挙するほど出世できるのだし、検察は有罪にするほど出世できる。
当たり前のことである。そうでないと、世の中の犯罪は減らない。
だが、それが一方で冤罪を産む背景にもなりうる。
警察や検察、裁判官が出世したり、保身を望んだりするのは
生きていく上で当たり前の反応なのだから、それを前提として
独立した機関が客観的に事実を認識できるようにしないといけない。
もちろん、そんなことは重々承知の上で頭のいい人たちが
制度をつくったのだと思うが、それでも問題が出てきているのは事実。
問題が起こったら反省して、誰かの心がけに頼るのではなく、
再発しない仕組み、仕掛けにまで落とし込むことが必要だ。
それこそが冤罪で時間を奪われた人たちへの報いになる。