「豊かな生活」をする方法 後編

外的刺激には限界がある。
実はそのことに気づいているのが、
ドラッグをやっている人や、SMを愛好する人たちである。
外にあるものは変わらないので、自分のほうを変えようとする。
ドラッグをやると、今まで普段見ていた何でもないものが
すべてきらびやかなものに見え、世界が一変するという。
これは外の状況は変らないが、自分が変わることによって
物事の捉え方が変わるよい例である。


SMもそうだ。
SMで気持ちがいいのはMの人だけだそうだ。
Mの人は自分を追い込んでいく、つまり自分が変わることで、
痛みが快感に変わっていく。
内的刺激が外的刺激を変化させるよい例である。


ぼくは最近よく思う。
「自分はこうしている間も変わっているのだ」と。
仏教用語でいうところの無常である。
何事もつねであるものはないということ。
昔読んだ本を今読むと違った感動があるのは、
自分が変化したからなのだ。
「私」は常に一定ではない。
このことを忘れてはいけない。
変わらないのは、まわりの状況のほうなのだ。
このことをつい忘れそうになる。
自分は変化していないのに、相手が変わったと思う。
本当は自分も変化したし、相手も変わったのだ。


ということは、自分を変えれば
まわりの状況も変化するということが言える。
自分の中での捉え方が変るのだ。
自分がいま豊かさを感じないなら、
いまの状態で豊かさを感じられる自分になればいい。
ドラッグをやらなくても、SMを愛好しなくても、
自分を変えられる方法がある。
それは自分が成長すること。
成長すれば、内的刺激によって外的刺激も高められるようになる。
これは単なるポジティブシンキングなどではない。
具体的にいうと、「そのものの裏にあること」に
思いを馳せることができるようになるということだ。
これを芸術の世界では「幽玄」という。


私たち人間の体は、たとえば塩気を感じるのは、
単にNaClとして感知しているのではない。
汗をかいたときにはよりおいしく感じられるようになっている。
それは体が必要としているからだ。
体は必要とするものを欲するようにできている。
つまり、体が変化したのだ。


これと同じことが、たとえば絵画鑑賞にも言える。
ある絵画を見たとする。
何の変哲もない絵だ。
ところが、画家がどんな時期にこの絵画を描いたかを知る。
「ああ、そんな大変な時期にこんな絵を描いたのか」
と感動を新たにする。
これは自分が変化したのである。


こういうことがすべてに言える。
ぼくが成長し、物事の裏にあるものを知り、感じ、想像することが
できたなら、そこに転がっている一本のボールペンにも
感動することができる。豊かさを感じることができる。


実際に経験したことがある。
ある有名な金型・プレス職人さんの話を聞いたときのこと。
「一番苦労したのはどんなものをつくったときか?」と訊くと、
彼は笑って、
「万年筆をポケットに引っ掛けるクリップの部分があるだろう。
あれを自動で取り付ける装置をつくるのに7年かかった」
というのである。
職人として有名な彼でも7年かかるのか、と思った瞬間、
そこに置いてあった万年筆が急に輝いて見えた。
そういう努力の結晶だとわかれば、自分の中の万年筆の価値が上がる。
そう、自分が変わったのだ。


とはいえ、いまはまだ外的刺激を求めることばかりだ。
まだおいしいものが食べたいし、いい家にも住みたい。
でもそうやって外的刺激を求めるのと同時に、
見えないものをみて、形のないものを想像し、物事の裏にある本当の
豊かさを見つけていきたいと思っている。