後北条氏5代の中でも一番の名君とされるのが氏康だろう。
小田原市のHPでも、
「大規模な検地を行い、税制改正を実施し、
更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、
領国支配の体制を本格的に整えたことで知られています」
と手放しの褒めようだ。
氏康の時には勢力を上野(群馬県)まで伸ばす。
その子は4代氏政。その弟が氏照である。
長男が夭逝しているため、氏照は実質次男として育てられたという。
このころ武田氏の脅威に対抗するため、氏照に滝山城を守らせる。
滝山城は多摩川を天然の堀として北側と隔てる地形になっている。
のだが、武田氏に結構攻められて二の丸まで落とされる。
城の防備に不安を感じて氏照は八王子城を築く。
たが、八王子城も山頂に本丸をつくるのだが、
そこへ天下統一の終盤に差し掛かっていた秀吉の軍勢が攻めてくる。
なぜかそのとき氏照は城下にはおらず、小田原にいたらしい。
八王子城は半日で落とされ、家来たちは秀吉軍によって惨殺される。
これが、八王子城が心霊スポットになっている理由だ。
秀吉軍が女、子供も殺したのは小田原の戦意を喪失させる意図が
あったとされている。
同時期に小田原城も攻められていて、秀吉は小田原を見下ろす
石垣山の山頂に一夜城(石垣山城)を築く。
窮地に陥った小田原城内では評定を続けるが結論が出ない。
これが「小田原評定」の故事となった。
結局、5代氏直が降伏し、戦犯とされた氏政、氏照は切腹させられる。